20数年前の2/27の早朝、祖父はがんで亡くなりました。
まだそれは、ぼくががんという病気も知らず、
そして祖父も知らずに亡くなりました。
今の自分の生き方のベースになっている、
おじいちゃんとサツキの約束や思い出をここに記していきたいと思いました。
頭にタオルを巻くのは祖父の真似事です。
みんながその姿でおじいちゃんを思い出してくれるから。
カンザキサツキです。
ぼくは元々おばあちゃんっ子です。
初孫の姉と、いとこが特に祖父に懐いていたので、子供の頃から空気の読める子でした。
おばあちゃんっ子でも、おじいちゃんとぼくの思い出はたくさんあります。
「はちみつ塗らない、リンゴ食べない」と言われ続けました。
朝はリンゴが金賞!はちみつは体によいから摂ったほうがいいという祖父母でした。
果物嫌いで当時はちみつも苦手だったぼくにどれだけ言ったことでしょう。
優しい祖父はそっと隠れてピーナツバターやチョコクリームを塗ってくれました。
そして何より、僕や姉が泊まりに行くと早朝からわざわざパン屋においしいパンを買ってきてくれました。
「これテントウムシみたいだね」と言うぼくによく買ってきてくれた、
チョコチップメロンパンが大好きなのは今も変わらず。
紅茶花伝が大好きになったのは祖父の影響です。
入院中の祖父が「おじいちゃんがおいしいものを見つけましたよ」と、
売店につれていってくれた際に内緒で買ってくれたのは紅茶花伝です。
当時は缶でアツアツのものだったことを覚えています。
我が家はジュースが飲めるのはお誕生日会だけ。
子供は牛乳か麦茶のみでしたから、「内緒ですよ」と買ってくれました。
今でもこのくだりは家族には内緒です。
あとカップ麺なども我が家は禁止だったので、
おばあちゃんの居ない日におじいちゃんと内緒で一平ちゃんを食べたことも、
内緒です。
「人に優しくすることで損をするなんてことは無いですよ。」と教えられました。
そしてその倍自分に厳しく生きること。
相手にはいつも笑顔で応対することも一緒に教わりました。
祖父が感情に任せて怒ったことは、記憶の中ではありません。
誰に聞いても穏やかな人だったと言われます。常に穏やかに諭す人でした。
抗がん剤でしんどいのにハムスターの【まろん】を頭に乗せまくってごめんね。
ぼくが飼っていたハムスターのまろん君を、 一時退院していた時に寝ている祖父のでこに乗せたり、
インコのチッチを耳元に置いてみたり・・・。
でこにうんちされてもそれでも、
「ほほほーまろんはかわいいですねー」と言ってくれてありがとう。
「ねえちゃんのように頭がよすぎるわけじゃないからあなたは人のために生きなさい」と言われました。
子供の頃はなんせお調子者だったので遠回しにアホだよと言われたのは内緒です。
姉は本当に頭が良く、賢い人です。
亡くなる寸前まで弁護士か裁判官になれと姉に言っていました。
僕には、人を笑顔にする、人のためになる人でいなさいと言われました。
よく人を見てた人でしたが、末っ子のぼくへの期待値はなかった様子です。
「おじいちゃんが死んだあと、みんなの笑顔はさつきちゃんが守るのですよ」と言われました。
家族の笑顔を守る、ということを葬式の直後にタイツ一丁でエガちゃんのモノマネで笑わせるということしかできませんでした。
なんかなんとしてでも笑かそうと必死でした。
最近やっと大人になって、家族の緩衝剤になれということだと気付きました。
非常に遅すぎた・・・。がんばってるよ。
ほかにもたくさん言われたことはありますが、祖父の生き方を尊敬しています。
激動の時代を生き抜いた祖父です。もっとワガママに生きてよかったと思います。
なのにいつも自分に厳しく、人に優しく、穏やかで、スマートに「優しい」人でした。
自分は感情的に涙を流したりイラっとしたりしてしまいます。
すべての人に、今日一日関わった人にありがとうのきもちを忘れず、そして祖父が残してくれた言葉やヒントを忘れず、生きていこうと思っています。
本音を言えば、もっと長生きしてほしかった。
「来年になったら体も大きくなります、おじいちゃんがテニスを教えてあげますよ」
の約束を守ってくれなかったことだけが、とっても悲しかったり悔しかったりします。
本当に、その1年後成長期になり1年で身長は10cm以上伸びました。
おじいちゃんの着ていたお洋服ちょっと短いぐらい大きくなったよ。
テニス以外もたくさん教わりたいことが今でもたくさんあります。
何より祖父の独特の誰にでもです、ます調の話し方が好きでした。
最近顔が若かりし日の祖父に似てきたと言われることがとっても嬉しい、カンザキでした。
併せてよみたい。
祖母は祖父の事を今でもずっと愛してやまないのです。
そんなふたりの孫でよかった。