確かに日本語は難しい。
とっても難しい、方言などによってもニュアンスが変わる訳で。
ただでさえ難しい日本語を更に難しくしているもの、社会に出て使えないとお恥ずかしいと言われる、敬語や謙譲語や丁寧語・・・。
ぼくも最近何が正しいか分からない。
分からなくなったのが正解か不正解かもわからない。
しかしへり下りすぎてる丁寧すぎるその言葉、
自分がそこまでへり下る必要あるなのかな?と思う思考回路もとまらない。
それでも社畜育成ズミの自分は無意識にスラスラと唱えれるようだ。
カンザキサツキです。
よくある「~のほう」「よろしかったでしょうか」すら聞きなれてきたこの頃。
丁寧に話そうとしている気持ちを汲んでいく毎日に、あまり気にしなくなってきたこの頃。
やはりちょっとモヤっとしますが、昔ほどではなくなっていました。
マナーとしての根底は、相手を思いやるという気持ちから発生するものなので間違ってはいないと思いますが、内心やっぱりその人がより格好よく見えたり信頼度に繋がるから言葉遣いは大事と思う気持ちもあります。
ただ言葉が進化したと捉える努力をしても、崩れていくのは言葉の持つ本質と意味合い
元々文章や会話の中で相手と自分の捉え方が違うことはよくあるお話。
しかし進化を遂げた先に本来の言葉の意味が変わっていたり、通じない日本語に変わってしまうこともある「古い表現」「古い言葉」
おば・・お姉さんだいぶ電話口でもメールでも机の前で深いため息をつきます。
時に子供に説明をするようなわかりよい言葉を引っ張りだしてきてます。
的確に「です」「ます」で短文でスマートすぎる会話の
”ほう”がわかりやすい”カタチ”に”なって”しまったのでしょうか。
と言わないとわからない世代が増えています。
いや、ぼくの世代でも十二分にこのスタイルが丁寧で正しいと思っている人が多くて、
誰か軌道修正してくれなかったのかや、おかしいかもと気付くことができなかったでしょうか。
自身にも他人にも無関心なのかもと思うと、とても心配です。
形あるものは変化する。変化を遂げて進化を繰り返していくもの。
「貴様」が「キサマ」となり「カカロット」となったように
(世間一般的にはなっていないですね)
きっとこれからも変化、進化を遂げ古い言葉が消えていく、
そしてどんどん意味を変えていくのでしょう。
日本語は特にそう思います。だから非常に興味深くおもしろい。
言葉は独歩している、生きているものと、不安だけでなくワクワクを感じているカンザキでした。
大阪が嫌いだったのにいつからか大阪弁の魅力にハマっています。
強要されるのは罪深いとやはり思う日々