会社員してるときは「わたし」「わたくし」「弊社」「わたくしども」
当たり前のように無意識にぽぽぽぽーんと出てしまってつらい!
顔面晒してお仕事してるときはどうにも昔事務所に言われた癖で
「さつき」です。
いい年頃のワシがなぜ名前を一人称にしないといけないのか!
それは名前をインプットさせるための簡単な作業のためです、
そういう習慣から抜け出せません、
さっちゃんこと、カンザキサツキです。
よく言われるのは普段「ぼく」なんて使わないでしょう?
さてどうでしょう?割と気にしない友達の前では普通に使ってます。
カンザキさんはオトコオンナなの?ウケルー
オトコトンナなんて中学生以来に言われました。
何か楽しいです?それはよかったです!ハッピーですね!!
自分という「個」を表現するのに最適だったのは「僕」より「ぼく」で
子供の頃無理矢理補正された、ぼくという一人称。
本質的に認識がそうであったのだということは今も心の片隅にいないわけではない。
そういう時代、そういう心のありさま、そういう生き方についてはまた触れたいと思います。
だいじなのは「個」であり、「自分」という1の生き物であって、それに加えられてるオプションがどうかってお話だと、思っています。
だから、男女の友情が・・・とか言うこともなければ、「個」と「個」で、
「ニンゲン」と「ニンゲン」だから、
友情にも恋愛にも、敵にも味方にもなるおもしろくてしんどい世界。
ただそれだけなのに、すごくなんだろう、世界狭い人にマウントとられる。
(最近よくマウントとられるって使いすぎな気がする)
きっと一般という枠があって、その枠は大きな円を描いていて、
その円の中におさめようとする人と、
おさまろうとする人と、
おさまらせないと阻止する人と、
どうでもいい人がいる中で、
ぼくはどうでもいい人になり始めていますが、昔はおさまらないといけないという勝手にひとりで脅迫的な概念にとらわれがちの人でした。
おさまらなくてもいい世界は、今のところなかなか屋根もないから自分の力だけで防御しないといけないけど、
そのおかげで見る目を少しずつ養いつつ、この世界は生きていくのが非常に面倒だなと思いながら自分でいれる場所を継続的に探しているカンザキでした。
自分の人生、駆け抜けてみて後悔しない人生を選択していってほしい気持ちです。
ぼくもまあまあ過去にもネット界隈でないことないこと書かれてたりしましたね。
一生残る時代、しんどいけど、生きてるのはリアルな世界