人生という道で、
どっかで手を抜いた分、ずるした分、
大人になってしばらくして、しわ寄せがきてる気がする。
「低スペックでごめんやで」
カンザキサツキです。
諦めが肝心と言う矛盾を抱えながら、様々に諦めて
手の届く範囲で生きてた自分が時に思うことは、
それは努力値が足りなかったからでは無いか、ということ。
役者になれなかった、とかもうそれは才能だけじゃなくて運も合わせ技っていう芸の道は仕方ない。
特に、いま社畜という名の会社員をしてきて、自分がいい具合に「向いているだろう」「行けるだろう」と働ける会社を今まで選んできた自分にとって、頭が痛いぐらいの問題である。
いつからか訳のわからない「謎の余裕」の中でだらけてきた結果が低所得のいまだと思っている。
正直、今働いている会社への満足度より不満度の方が高い。主に給料形態など。
それは過去に勤めていた場所が完全に満足だったかと言われたらそうじゃ無いけど、
周りはいい会社でソコソコのポジションについていたり、
結婚して子供がいたり、いい生活をしているように見える、実際そうである。
もっとちゃんと若い頃勉強してくれば、という気持ちに溢れてくる大人の一人です。
ギリギリ高卒だったのは在学中に、大阪を飛び出したため出席日数がギリギリで卒業になりました。
あれがなかったら今頃自分の意思のない、親の言いなり人間になっていたと思いますが、その反面、もっと踏みとどまって努力して勉強して、きちんとと思う次第でもあります。
恋や夢を言い訳に飛び出してよかったのか、と大人になって悔いている。
辛抱がなかった自分のしわ寄せが今であると思うひびに溢れている。
生きていくために必死に働いてきたことは否定しない、
でも嫌なことから目を背けた自分はとても苦労や努力が人より少なかったのだなと思うこの頃です。
圧倒的に努力値と成果値が、不足しているからこんなに身のない実りのない自分なのだろうと、日々絶望しているぼくのようにならないで欲しいという気持ち。
グッと堪える力が足りず、備えるのに本当に人以上に時間を要したと思います。
そして、親元を離れて必死に生きる=仕事をこなすだけの甘ったれた生活だったと最近振り返っています。
勿論大人の世界に溶け込むのに「必死」でした。
必死で築き上げた結果と、踏みとどまって、食いしばって得た成功や結果は「努力」がくっついている芯の強い、大人になる過程を踏んでいく過程でいい基盤ができていると思います。
大人になるにつれ、大人が熟していくにつれ、ぼくが感じていることです。
一生懸命目の前にある現実をこなしていくだけが必死の毎日を送らないために、
余裕のある人生プランを立てる余裕はこれからでも遅くないと信じたいけど、もう遅いと思っています。
もう成果値も努力値も足りないぼくはぼくで、誰にも迷惑かけない生活を心がけると割り切ったのでマイペースでいいや、と思いつつ、
時折、当たり前に普通の成熟した大人に憧れるカンザキでした。
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