日本人は今でも右向け右に従う種の人が多くて、
俺は他とは違うんだぜ!の方向性の方の一部は法や規約の逸脱だったり迷惑行為だったり、
誰かの真似事をあたかも我が一番手じゃと偽ってみたり、
そういう種の人がわりといたりすると思ってる。
規約でない以上、規約を違反しなければある程度の唯我独尊風が許されるものではないのかなっていつも思ってる。
参考と真似事は似ているようで別物であると考えています。
カンザキサツキです。
参考にしてくださいと、真似してくださいは似ているようで大きく異なる別物であるという認識です。
よく、こうす「べき」とか、こうするのが「暗黙」で、こうすると成功してる人が多い「傾向」と言われることが様々な場面で多いです。
元々、こうしなさいという規約やルールが設けられているのなら、それに従うけど、
そうでないものすらも、こうするのが大勢だから大勢であるべき、という価値観を悪気もなくストレートにぶつけてこられることが多い。
例えば、わかりやすい話にすると、
こういう感じで動画を作ってくださいだけの指示があったとしましょう。
最初に紹介があって、概要があって、提供文の読み上げがって、自己の感想を述べる、
と指示のあった場合、それの流れを守って決められた時間内で納めたらいいだけの話です。
それに対して、
●●さんと同じように、リアクションはこう、ここで画面に寄って、テロップはこの色でこの書体で、こうしてもらいたかった。
と後で言われたらどうでしょう。
そうした方が●●さんみたいに再生数が伸びるからそうして!
と言われたら、●●さんに依頼してよってなりますよね?
だって、ぼくは●●さんじゃないから、同じようにして欲しいなら指示書にコピーした感じで作るように指示を書く「べき」だ。
それは●●さんのクオリティが良かったのか、人気者だったのか、そうすることによって価値が上がるデータがあるのかにもよりますが、
だいたいこういう感じで言われるのは、
なんとなくそういう感じが通例でしょ、の雰囲気オーダーだったりすることが多い印象を受けます。
だったら真似事でみんなに同じようにさせたらいいけど、
自分の価値観として、同じようなものにあふれてる世界で同じようなものを好んで見たりしないと思うんですよね。(自己の感想です)
それをぼくは二番煎じ、三番煎じと思っています。違うならすみません。
こうす「べき」で二番煎じ製造に余念がないと感じる。これはよく配信アプリを見たり参加してみたりしていて思うことです。どこの配信サービスでも同じことを言われてきたのです。
結果、ぼくが思うのはどこで何を見てもだいたい同じ感じでつまんねえな、です。
同じくぼくも似たような箱や、一般社会で似たようなことをやってきているのですが、
そうす「べき」というご指導ご鞭撻の元やってきていました。
もちろん、来ていただくことに、お時間を割いていただくことに、お仕事に対して、
感謝するのは人として当然です。
ただ、完全にそうする必要が無いものに対して、そうす「べき」理由がまあまあ過去の、
そういうことで成功した人がいるらしいと、ふんわりしすぎて明確になっていない理由になってきているのは事実です。
これは一般的な大人社会もそうだと思うのです。
もうそろそろ同じような手法では、革新的に圧倒的な頭角をみせることは難しいと思います。
これは一般社会においても圧倒的にそうである傾向があると思います。
他のお仕事や趣味に対してもですが、
真似事って面白いです?興味湧きます?
ぼくはそう思えないのです。
やっぱりいつも先駆者で、唯一な存在の方が面白いと思う可能性を秘めているかも知れないと、あわせて伝えていく「べき」なんじゃ無いのかなと思うのです。
もしくは伝えないか。
伝えないことによって切磋琢磨して唯一を生み出すことができたら、それはそれは素晴らしいことだと思います。
一般社会にいると特にそう思います。
当たり前に出社し、名刺交換し、相槌を打ち、偉い人にヘコヘコする。
つまんないなー、無駄な時間だなーと思うこともちょっとある。
もっとスマートに取引しようぜ!って思ってます。割とマジで。
それでも底辺だから、実績が、確たるものが無いから、二番煎じを貫くし無い自分ですが、
それでもやっぱりいつか突き抜けたいから、模索しているつもりですし、その所存です。
もちろん人として、社会人として当然守るべきものは守るべきですが、
営業手法や攻め方、アクションの起こし方を変えていくことって、大事だと思ってしまうカンザキでした。
殿なら、従うけど、その前に家臣にしてくれって思う。