周りからもこたちゃんは幸せだったよと言ってもらうのです。
でも、自分は虎太郎に対してずっと優しくしてたわけじゃなくて
喧嘩したり、思いっきり噛みつかれて嫌い!と言ったことがあったり、
何より毎日会社に行くのにお留守番させて、虎太郎が若い頃はあそびに行ってた。
本当申し訳ないことばかりだったと後悔と反省の日々を亡くなってからずっと送っています。
そう言うことをTwitterだけ書くと過剰に何か言ってくる人いるからブログだけに留めてます。
愛犬であり息子である虎太郎がいなくなってから毎日が虚無です。
距離が近い。
カンザキサツキです。
周囲からは、長生きだったよ!しっかりお世話してたよ!幸せだったよと言ってもらうばかりです。
家族や友人だけじゃなく、一緒にお散歩していた虎太郎の友達や近所の人にも言ってもらうのです。
これほどに愛犬が様々な方に可愛がってもらってたことにお礼を言う日々はまだまだ続いています。
その反面で、先に書いたようにいい飼い主じゃなかったことへの反省が増すばかりです。
そして夜になるとその気持ちは膨れ上がり眠れない日々がずっと続いています。
眠れない日、涙が全く出ない毎日を送りながら愛犬との写真を見続ける夜を送っていて気づいたことがあります。
虎太郎の写真を過剰に撮り出したのは、このブログでも書いてるこの頃です。
今年に入り、撮ることが増え、引っ越しをしてからは一緒に写真を撮ることが増えました。
当たり前が終わると言うことを感じ始めた時期でもありました。
その中で気づいたのが、自分を見る目がとっても優しかったことです。
たくさん撮りすぎてる中で、特になくなる日が近いほど愛犬が自分を見る目が非常に穏やかで優しいように見えるのです。
変わらず悪戯を動きづらい体でしてくれちゃったり、
一生懸命に甘えてみたり、
亡くなる数時間前とは思わず抱っこしていた時もひたすら穏やかな顔でした。
抱っこする数時間前はぐったり寝ていたので、本当はすごくしんどかったんだろうなと思います。
歩かなくなったお散歩の時は、常に視線を感じながらお話ししながら歩いていました。
ここ歩きましたねとか、暑くないですか?とか、しんどくないですか?とか
母ちゃんはお仕事にこの後行きますけど、お留守番できますか?とか。
祖母の家では常に膝の上で寛いで、時々視線を感じたらじーっとみられてたりもしました。
載せきれないけど、ほんとうにたくさん、優しい顔でいつも一途に見てくれてたんだなと思うと
やっぱり反省と後悔は増すばかりですが、それ以上にありがとうの気持ちにさせてくれます。
眠れない日々の中で、この辺りから断然しんどそうだなって顕著に見られる時があったり、
記憶する限りバタンと倒れたり、よろめくようになった時期が被ってきたり、
一瞬の元気な姿に過剰に嬉しかったり・・・。
とにかくたくさんすぎる写真を最後の半年ちょっと撮ってきてよかったと思います。
いい飼い主じゃなかっと言う気持ちはずっと奥底にあると思います。
いい犬だった、いい息子だったと言う気持ちはそれ以上に常にあります。
本当に優しい子でした。
もっともっとたくさんの時間をかけてやればよかった。仕事もセーブすればよかったと思っても何も帰ってこない。
いつか、あの世があってもし虎太郎がいてくれるのであれば再会したいと思います。
あくまで概念の話なので、実際ことは自分がこの世を去るまでわからないし、
伝えることもできませんがそうあればいいなと思うしか今自分が生きていけないカンザキでした。