愛犬の最期を、寝落ちという形で看取れなかった母です。
最大限の愛犬からの優しさの形だと思い受け止めているから、
なるべくまっすぐ変わらない毎日を送っているつもりです。
唐突に、あ、いないんだと思う時があるけど、
どうにも悲しい寂しいという気持ちにはまだ変われずなんとなく気持ち悪い虚無感の中で生きています。
亡くなった後の魂はどこに行くのだろう。
母ちゃんは幽霊とかお化けとか見えないものは信用していないけど、
ご都合主義だから君の心はずっとどこかに残っていると思ってやまない。
もう1ヶ月か、まだ1ヶ月なのか、そんな複雑な気持ちがあります。
カンザキサツキです。
ペットロス辛いでしょ?と言われてもなんて返していいかわからない。
悲しいとか寂しいのベクトルじゃないと思うし、
虎視眈々と、生きるしか自分にはできやしない。
無気力の極みでも月曜の次には火曜日が来る。金曜日が来ると明日は休みだとホッとする。
それが変わらない毎日で、
朝眠くても必死に起きて散歩に行かない、
「こた、散歩いこ」
帰るたび、玄関開ける前に元気な姿でありますようにと願って
「こた、ただいま」
がない毎日。
刺激なんてありゃしない。ただ生きていくために、仕事だけしてる人になっただけだ。
そんな母ちゃんを、もしこたが見てるとしたらどう思うのかという不安はある。
ただ一つだけ言えるとしたら、君を忘れることはこの後もないよ。
本当はもっとずっとそばにいたかったよなんて毎日言ってたら、流石に申し訳ないと思う。
この後、犬と暮らさないか聞かれることが非常に増えたけど、
確かに犬は大好きだけど、自分にとって、虎太郎以上は存在しない。
だからもう自分は犬と暮らすことはないと思います。
そして一人で一緒に犬と暮らすには、自分には器量が足りなさすぎる。
金銭面も、精神面も、犬を満足に育てていける背景はないと、
虎太郎には申し訳ないけど、そう思いました。
虎太郎もわかってたいたと思う。
よく、母や祖母やおばに助けてもらいながら10歳から16歳を送ってきたからこそ、
よく家族に懐いていたのだと思います。不甲斐ない飼い主だったなと反省する日々でもあります。
だからこそ、一人で精一杯生きていく姿で、これ以上虎太郎に心配をかけたくないと思って生きてる姿が
君にとって寂しいものじゃないか、悲しいものじゃないか、もっと喪に服して欲しいと思ってるんじゃないか考える時がある。
あと自分は何十年も一人で生きていく中で、虎太郎と過ごした時間を思い出すと踏ん張れる気がします。
まだ無気力の中で、最低限のことしかできていないのが現状です。
それでも生きてくしかない、でも虎太郎と生きてきた何気ない毎日があったから、
これから困難にあってもなんとか踏ん張れる気がします。
思いっきり噛まれて大怪我したこともあります。
思いっきり喧嘩したこともあります。
思いっきり一晩泣き腫らした顔を舐めてもらってこともあります。
何より、毎日の色々が当たり前で、ずっと一緒でした。
虚無感の人生が変わるかもしれない、変わらないかもしれない、
小さい愛犬に支えてもらってばかりだったから、そのなかでちょっとだけだけど強くなれたと思うから、
なんとか生きていける思います。
自分が最期を迎える時、虎太郎に再会できたらいいのになって思っていても、
虎太郎は迎えにきてくれないかもしれない。
でもどっかでひょっこり見てると思うしかないしそう思う。
そんな感じの信頼しきってる関係性は一生と願って、
おいでって言ってもこない犬だから自分が行くしかなくて、
迎えにいけば、来たじゃん、待ってたよ、みたいな顔で上を見上げてくれた姿にまた再会できると願って、
今日も明日も母ちゃんは虎視眈々と生きていこうと思います。
改めて、愛犬を愛してくれた全ての方に感謝申し上げます。
カンザキでした。