ばあばちゃんの教えは、
柿の木も枇杷の木も、他の枝に気を使えないでしゃばりの芽は摘めです。
人も然りやでと、柿の収穫の時に教わりました。
みんなが楽しくなるようにまあるく生きることが、ばあちゃんのモットーです。
ぼくもそうありたいと思います。
メガネが本体ではありません、カンザキサツキです。
丸く生きづらいこの世の中で、丸く生きるとどうしてもコロコロと大勢から外れてしまう。
好きに生きやすい時代になってきたけど、そうでもないと思う。
自己主張が激しくないと生き抜けない世の中でもある。
特に自分のいる撮影会関連などは自己発信が大事です。
それでも自分は自分のペースを見出したくないなって思うし、
人それぞれの見せ方や魅せ方も異なるし、誰かと競ったり頭角を見せても楽しそうだなって思わない。
そう思っているとそう行動してると、結構言われたり切られたりもする。
承認欲求こそ醜いものはないと思うし、承認欲求でお腹はいっぱいにならない。
ぼくの尻を拭くのは自分自身でしかないことに対して大きく尻を見せる必要もないと思う。
その積み重ねは結局ぼっちを極めるしかなくなる。
特に自分の周りは承認欲求の高い人が多くて、かまってくれる人が好きでという人が多いから合わないから自ら退くのも理由でもありますが・・・。
祖母の教えは、柿の収穫や庭の手入れの時に耳にタコができるぐらい繰り返し言われてきた中にある。
もちろん仕事のやり方も然り。
仕事への価値観は母の方が強く背中を見せて教えてくれたと思いますが、
祖母から作物の育て方や、木の切り方、柿の実りを増やすための不要な枝落としなどから教わってきました。
その中で「でしゃばりの芽は周りを悪くさせる」とか「若い芽でも甘やかしてはいけない」とか
上手いこと言うな、と思う年頃になりました。
昔は全く理解できずに切ってきたけど、抜いてきたけど、間引いてきたけど、
そう言うことは草花や木だけじゃなく、人として生きていく上でも大事なことなんだなと思うのです。
まあるく生きるは丸く生きるじゃなくて、みんながよりよく穏やかに生きるための心配りだと思う。
誰かだけが得をして、誰かがだけが傷ついて我慢するということはあまり良くないと思うのです。
相手を立てすぎるも良くない。
相手を無碍にしすぎるも良くない。
その場にいる人、さっきまでいて今はいない人、これなかった人、関わりのある人たちが
なるべく均等な気持ちと均等な感覚でいれるように努力することがまあるく生きるなのかなと思っています。
映えない人生だし、映えない生活だし、映えない自分ですが、
ぼっちでもまあるく生きようと思っています。
少しでも自分に関わってくれる、仲良くしてくれる人が幸せであればと思いながら、
ひっそりこれからも自分の手から溢れない程度の量で生きていきたいと思います。
カンザキでした。