祖母の体調不良は、どこかで良くなる、また今度も良くなると正常性バイアスなのでしょう、そう思う節が自分は今もずっとあります。
そして、祖母も母も圧倒的に自分より先にいなくなる可能性の方が高いのにずっといるだろうと思ってしまう節があります。
同時に、祖母と母がいなくなったぼくの人生は、本当にひとりぼっちです。
それを鈍器で殴られるぐらいの痛みを感じながら日々を送っています。
カンザキサツキです。
祖母と毎日一緒に夕飯を食べていた生活がつい最近まであったはずなのに、だいぶ前の感覚もある。
そして祖母のご飯が食べたい。
現実、無理なのに、そう思うこの気持ちは何だろう。
当たり前が当たり前じゃなくなってしまった後のこの思いはなんと言えばいいかわからないけど、
毎日他愛もない話して、ちょっと鬱陶しいなーなんて思ったりした時間をもっと大切にしてきたらよかったと思ったりもする。
祖母と喧嘩した時間も、あんなこといなきゃよかったなもたくさんある。
そんなことを考えもせず毎晩「ただいま」と祖母の家に寄って夕飯を食べて祖母がお風呂から上がるまで待ってる暮らしが最近まであったはずなのに懐かしく感じたり不思議な気持ちです。
最近、祖母のご飯が祖母の味が食べたい気持ちが溢れてしまっています。
でも自炊全くしてない自分がここにいます。
昨年、愛犬を亡くしてから時間は限られていたのにと後悔の気持ちを毎日抱いてる中、今度は祖母に対しても「あの時こうしてあげてたら」とか思い、自分の心がもたなさそうになってます。
それでも、正常性を保とうとしているのだろう、祖母はきっとまた元気になっていつかご飯だってくれるだろうとか考えちゃう。
祖母はきっとまたいつも通りちょっと口うるさくて、黙って酒を一緒に飲んで母ちゃんに二人して怒られるんだろうなとか思ってしまったりする。
そう思いながらも愛犬の虎太郎を失った後悔や寂しさにかぶさるように祖母がいなくなってしまった世界の夢を見てしまっては夜中ない涙をこぼしたりする。
あ、もちろんですが生きてますよ。ちょっと体調は悪いですが元気です。
元気に生きてるけどあと10年も20年も生きれるわけじゃない人です。
あとどれだけ、何年何日何秒を一緒に過ごせるのかとか、
その一瞬一瞬を大事にできるかとか、少しでも時間を増やせるだろうかとかそういうことをグルグル考えすぎて心がエライコッチャになって寝不足を重ねる夜をずっと過ごしています。
時間は無限にない。有限だ。もちろん自分の人生も有限だから自分の心に素直に生きたい。
仕事と家族介護のコロナ禍の中で友達との関係は薄くなって友達と呼べる人は本当にいるのかというレベルだ。
一方的に思っていても、そうじゃなかったこともあった。でもそれを気にしてる余裕もない。
自分が働ける時間はまだまだ先まであって遠くて遠くてどうしようだけど
仕事してる時間が勿体無いぐらい、家族と過ごせる時間は限られていて、
親不孝に飛び出した長い時間を悔やんでも戻ってこない。
有限なんだからなるべく自分の心に正直に「したいこと」を貫きたいと強く思うようになりました。
今は1秒でも長く、祖母の隣にいたいと思う。
前にもこのブログにも書いてますが、愛犬と祖母と母を見守ることが残りのぼくの人生でやりたいことです。
今いろんなことを考えてもそれ以外に自主的にやりたいことは湧いてきそうにないです。
やらなきゃいけないのは生きていくための仕事ですし、その仕事を削ってでも家族と過ごしたいけど現実問題無理な話です。
働かないと生きていけません。とっても理不尽です。
時間が過ぎるのが早いことに焦りや不安を感じたり、電話が鳴るたびにドキッとして動悸を抑えるのに必死です。
この3連休は祖母と過ごせる時間を大事に大切にしていたいなと思うカンザキでした。